「池原義郎論」 大地から天空、あるいは深奥へ ー建築家の身体と言語をめぐってー

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「池原義郎論」  大地から天空、あるいは深奥へ

ー建築家の身体と言語をめぐってー

 

某建築情報サイトのために書いた寄稿文ですが、結局掲載されなかったので…お蔵入りも忍びないので公開します。

昨年亡くなられた池原義郎という建築家についての講演会をまとめたレポートです。

一般的にはあまり知られていない建築家かと思いますが、金属とコンクリートを用いた繊細な表現は他に類を見ない種のものです。

少しでもその存在が認知され、現代で建築に携わる人たちの中で生かされればと願っています。

少し癖のあるレポートかもしれませんがよろしければご覧ください。

 

 

概要

講師:中川武(早稲田大学名誉教授・明治村館長)

コーディネーター:伏見唯

主催:(有)建築思潮研究所、(株)建築資料研究社 / 日建学院

開催日:2017年7月25日

内容:講演 18:30〜20:00

     質疑応答 20:00〜20:30

場所:日建学院上野校

 

 

はじめに

平成29年5月20日、建築家・池原義郎は89年に及ぶその生涯を終えた。

今回の講演会は『住宅建築 8月号』の出版を記念した講演会であり、以前より中川武氏が池原義郎について講演を行う予定であったが、奇しくも池原義郎を追悼するようなタイミングでの開催となった。中川氏が掲げた講演会のテーマは『池原義郎論』。これは予てから氏が、いつか池原義郎の建築家論を書きたいと願っていたことの表れだという。また副題としては『大地から天空、あるいは深奥へ ー 建築家の身体と言語をめぐって』と示されており、講演会は主にこの副題の視点から池原義郎という1人の建築家を見つめていくという内容となっていた。

 

 

身体と自然の関係

中川氏は講演の冒頭で、現代の建築に欠けているものはロマン主義であり、池原はその失われたロマン主義の体現であると語った。そして同時に、池原はその創作態度の中に建築と身体そして言語との関係性をテーマとして持つ近現代建築史の中でも稀有な存在であったということを強調した。

「人間の身体と自然は本来的には同義であるが、身体が自然に働きかけることでその関係にズレが生じ、そこに言語が生まれた。言語が生まれることで人間と自然の関係性は良くも悪くも豊かになり、その中で近代文明が育まれてきた。」

中川氏はこのように、近代とは人間と自然との対峙関係によって成立した現象であると述べた。

その対峙関係の中で加速度的に発展を遂げた近代の先鋒としての今を生きる我々にとってもはや『身体=自然』という等式を体感的に理解することは難しい。それほどまでに現代において身体と自然のズレは大きくなっている。

建築において所謂「近代の限界」が叫ばれて久しいが、中川氏の言う『身体と自然のズレ』が本質的な原因として存在していると考えられるのではないだろうか。

そのような状況の中で『身体と自然の再統合』という視点を持つことは、近代建築の克服を考える上で一つの軸になり得る。池原義郎の再考という行為はその軸を獲得する上で大きな意味を持つのではないだろうか。

今回の講演は18の建築作品について中川氏がその解釈を加えていくことで池原がどのような思想をもってその建築表現を獲得するに至ったかについて詳細に突き詰め、現代における池原義郎の再考の意義を問うという構成であった。

このレポートではその中の7作品に焦点を絞り、概要をまとめていく。

 

 

大地から:建築家池原義郎の誕生、今井兼次という〈内部〉から大地からという〈外部〉の発見

 

・岩窟ホール(1970)

 

 

・白浜中学校(1970)

 

 

 

池原義郎は元々構造家志望であったが、ある出来事によって建築家としての転機をむかえる。それが今井兼次との出会いである。

今井に師事し、建築を芸術として考えるその創作態度を深く学んだ池原は『岩窟ホール』そして『白浜中学校』の設計を通じて自らの建築表現の端緒を見出した。

岩窟ホールは、鬼押出しと呼ばれる浅間山から流れ出した溶岩地帯に建つ建築で、中川氏曰く、「遺跡のように大地の中にただその強い形だけが残るような、大地そのもののような建築を目指した」ものである。

そして『白浜中学校』は眼前に広がる海という存在を、予算の限られた学校建築の中でどのように空間化するべきかを追求した作品である。

強固な自己という圧倒的な『内部』で空間を作り上げた今井に対して、池原は岩窟ホール、白浜中学校の設計を通じて『大地』、すなわち自らの『外部』を発見するに至ったのである。

 

・所沢聖地霊園(1973)

 

 

『外部』という概念を発見することで今井兼次から離れた池原義郎の、一人の建築家としての方向性を決定づける上で重要な作品が『所沢聖地霊園』である。

この建築は、池原を語る上で重要である『武蔵野的』という概念をよく表していると中川氏は語る。

武蔵野という言葉が指し示す範囲は明確に定義されてはいないが、都心と郊外の境界というイメージが一つの共通認識となり得る。池原が生まれ育った渋谷も、かつては武蔵野の気配が感じられる場所であったという。本当の都会でもなければ本当の田舎でもない。現代の所沢というまさに武蔵野的な環境は、彼の原風景と重なる部分があったのかもしない。

池原はこの建築において大地の持つ暖かさや、雑木林の中で感じる静謐さなどを追求することで、武蔵野の風の中に故人との思い出が溶け込んでいくような空間を作り上げたのである。

 

 

 

天空へ:〈建築的なもの〉の成立とその機能

 

・早稲田大学所沢キャンパス(1987)

 

 

池原は『早稲田大学所沢キャンパス』の設計を通じてその作家性の中に『天空』という新たな視座を見出すに至る。

渦巻状の平面計画の中心に、天高く上昇する塔形状の中央棟を据えたこの建築は大隈重信の「高く飛ばんと欲すれば深く学ばざるべからず」という言葉を正に表現したものと言える。

そして、池原自らが寄付を募ってまで設置にこだわったカール・ミレスの「人とペガサス」という彫刻作品が、キャンパスのアプローチ部分に聳え立つことによって、この建築に内包された大学の在り方に対する思想は更に高められている。

中川氏はこの建築を目にした時、「晩秋の武蔵野の縹緲(ひょうびょう)たる世界の中に現前するその確固たる存在に、大学が目指していた理想の姿を感じた」と語る。

 

 

・西武遊園地(1981-1984)

 

 

このプロジェクトにおいて池原は、老若男女に関わらず日本人が持っている西洋の街並み・文化に対する憧憬をどのように空間化するかをテーマとした。そして沈思の果てに、街並みのスカイラインをなぞるような形で抽象化するという表現にたどり着いた。

中川氏は「この建築における表現は、一見すると軽さという手法に終始しているかのように受けとられがちだが、本質はそうではない。どんな種類の建築であっても周囲の環境に溶け込む在り方を追求する池原が、西洋の街並みを再空間化することを目指した結果生み出されたものである」と話し、池原がこの遊園地のデザインにかけた想いの強さを強調した。

園内の随所に散りばめられた西洋の小物語に対するパロディは、どこか手仕事的な雰囲気を感じさせる繊細なディティールによって構成されており、そういった部分からも池原の建築思想・表現の深淵さを伺い知ることができる作品である。

 

 

深奥へ:〈たどりつくことができない深い奥〉ー〈建築の〉自立の思想的拠点

 

・勝浦の家(1977)

 

 

しかし『天空』というテーマのみでは建築の自立性を保つことはできない。池原の建築には更に『深奥』という思想が内包されていると中川氏は語る。

この『深奥』というテーマは今井の建築表現からの独立を模索した池原が、その末にたどり着いたものであり、『勝浦の家』の空間構成において顕著にうかがい知ることができる。

雁行型のアプローチ、重厚な玄関扉、深く抉り込まれたコンクリートの壁。様々な空間要素が重層的に展開され、辿り着こうにも辿り着けない奥が形成される。最深部からは入口付近の吹抜けを見渡せるようになっているが、最初に通った時と最深部に達した後では同じ空間でもその全く見え方が変わっている。最深部に達して初めて気付くその更に先の奥の存在。勝浦の家はそれほどまでに深い奥の中にある種の神秘性すら感じさせる作品と言える。

 

 

天空の中の深奥:彼岸花、ゆれる細い白

 

・酒田市美術館(1997)

 

これまで『大地』『天空』『深奥』という三つのテーマに沿って池原義郎の建築を読み解いてきたが、それらの概念が存分に展開された代表作と捉えることができるのが「酒田市美術館」である。

中川氏はこの酒田市美術館はデンマークのルイジアナ美術館と似ている部分がある語った。しかし同時に、周辺環境や展示作品との調和を目指したデザインを徹底しているルイジアナ美術館に対して、酒田市美術館は建築の造形そのものが強く主張をもっているという点で大きく異なると指摘した。

酒田市美術館の『建築を通してみる庄内平野の風景が展示物となる』というコンセプトを考えると、本来であれば建築は背景に退かなければならない。しかしそれを重々に承知してなお前面に押し出されくる造形の中にこそ、池原義郎の作家性の発露を見ることができるのである。

 

 

 

おわりに ー池原義郎とはー

 

冒頭で語られたように、池原義郎という建築家は身体性と言語というテーマの中で

その建築表現を追求した、近現代建築史において稀有な存在である。

その独自性は、渋谷という東京の中心から少し外れた武蔵野的な場所で生まれ育ち、『取るに足らないものに丹精をこめる』という江戸町人の美意識を獲得したことによって形成させれていった。

「強権的な世界から身を離し、何者にも拘束されない不覊(ふき)の世界に生き続けたからこそ、あそこまでの表現に至ることができた」と中川氏は述べる。

「人間はどう考えても自然の一部のはずなのに、自然との格闘の末にあまりにそれから離れすぎている。それをどうしたらいいのか誰にも分からない。わかるはずのものなのに、わからない。それが現代の状況である。そのような中で、建築には自然と身体をもう一度近づけていく可能性が秘められているのではないだろうか。建築の力をもう一度信じるロマン主義的精神を持ち、その可能性を追求することが現代における建築家の果たすべき役割である。池原義郎の再考はその手がかりとして位置付けられるのではないだろうか」

中川氏は最後にこのように語り、講演会の結びとした。

 

 

 

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